1972年(昭和47年)11月6日午前1時過ぎ。北陸本線・北陸トンネル(福井県敦賀市〜今庄町間、全長13870メートル)の坑内で、急行「きたぐに」(大阪発青森行き)の食堂車から火災が発生した。列車はトンネル内で停車し、煙と炎が充満する密閉空間に乗客が閉じ込められた。死者30名、負傷者714名。
この事故を語る上で最も重要な問いは「なぜトンネルの中で止まったのか」だ。走り続けてトンネルを抜けることができたのではないか——この問いへの検証が、その後の日本の鉄道トンネル安全対策を根本から変えることになった。
北陸トンネルという「難所」
北陸トンネルは全長13870メートル。完成当時(1962年)は日本最長の鉄道トンネルだった。福井県の日本海側と内陸部を結ぶ北陸本線のルート上にあり、険しい山地を貫く重要な区間だ。
急行「きたぐに」は大阪から青森に向かう長距離夜行急行列車で、旅客約700名を乗せていた。編成には食堂車が含まれており、深夜の走行中も食堂車では調理・サービスが続けられていた。
午前1時過ぎ、食堂車(10号車)の床下から出火した。出火原因は電気系統の過熱とされる。火は急速に燃え広がり、大量の煙を発生させた。
致命的な判断:「トンネル内での停車」
火災を察知した運転士は、規則に従って列車を停止させた。当時の鉄道運転規則には「火災が発生した場合は停車させること」という基本原則があった。列車を止めて乗客を安全に降ろす——これが「常識的な対応」だった。
しかし問題はここにある。火災が発生した場所がトンネルの内部だったのだ。
トンネル内に停車した列車には、700名の乗客が閉じ込められた。出口は遠く、トンネル内は真っ暗だ。火は燃え広がり、煙がトンネル内に充満する。換気が不十分なトンネルの中で一酸化炭素濃度が急速に上昇した。
停車した位置から出口まで、どれくらいの距離があったのか。当時の列車位置からトンネルの出口まで約3〜4キロメートルだったとされる。もし運転士が速度を落とさずにそのまま走り続けていれば、数分でトンネルを抜けることができたかもしれない。開放された空間で乗客を降ろすことができれば、死者30名という結果は変わっていた可能性がある。
だが運転士はそうしなかった。「火災発生時は停車する」という訓練と習慣に従った。その判断の是非を個人として責めることはできない。問題は、「トンネル内での火災」という特殊状況が想定された上で、適切な対応手順が定められていなかったことにある。
停車後の混乱:真っ暗なトンネルの中で
列車が停車した後、乗務員は初期消火を試みた。しかし車両火災は急速に拡大し、消火器では対応できなかった。
乗客への避難誘導が始まったが、トンネル内は非常灯だけの薄暗い状況だった。「どこへ逃げればいいのか」が分からない乗客が続出した。一部の乗客はドアを開けてトンネルの壁沿いを歩き、出口を目指した。しかし煙は容赦なく追ってきた。
死亡した30名の多くは、一酸化炭素中毒によるものだった。煙の中で意識を失い、そのまま助けられなかった人々だ。逃げようとした跡が残る遺体も発見されたとされる。
救助隊の到着にも時間がかかった。トンネルという密閉空間での大規模火災・煙害は、当時の消防・救急体制が想定していなかった事態だった。
事故調査が明らかにした問題点
運輸省が実施した事故調査は、以下の問題点を指摘した。
第一に、食堂車の内装の可燃性だ。当時の食堂車には燃えやすい素材が多く使われており、出火後の延焼が早かった。
第二に、トンネル内の換気不足と避難設備の欠如だ。13870メートルという長大トンネルに、緊急避難のための照明、誘導灯、避難坑がなかった。乗客が自力で出口を目指すしかなかった。
第三に、「停車」を前提とした訓練の問題だ。「火災が発生したら止まれ」という訓練は、トンネル外での一般的な火災を想定したものだった。「トンネル内での火災」という状況を想定し、「可能な限り走り抜けよ」という対応を教育に組み込んでいなかった。
「走り抜け」原則の確立
北陸トンネル火災は、日本の鉄道トンネル安全対策を根本から変えた。最も重要な変化が「走り抜け原則」の確立だ。
トンネル内で火災が発生した場合、可能であればトンネル外まで走り続けることを原則とする——この方針が、国鉄の運転規則と乗務員訓練に組み込まれた。「止まれ」から「走り抜けよ」への根本的な転換だ。
これに加えて、以下の対策が導入・強化された。
- 車両内装材の難燃化・不燃化の義務付け(新製車両から順次適用)
- 長大トンネルへの非常照明・避難誘導灯の整備
- 避難経路を示す標識の設置
- 横断連絡坑(避難坑)の整備計画の策定
- 火災検知システムの導入
- 乗務員向けのトンネル火災対応マニュアルの整備と訓練強化
これらの対策は、その後に建設された長大トンネルの設計に反映された。青函トンネル(全長53.85キロメートル)には、定間隔で避難坑が設けられ、緊急時に乗客が線路から避難できる構造になっている。山陽新幹線のトンネルにも、安全設備が重点的に整備された。
食堂車の廃止という間接的影響
北陸トンネル火災は、日本の長距離列車の食堂車文化にも影響を与えた。
事故を機に、食堂車の内装の難燃化が進められた。しかし食堂車そのものへの安全面からの懸念は残った。その後、新幹線の整備による長距離列車の需要低下と相まって、食堂車を持つ列車は急速に減少した。現在、定期運行する在来線特急・急行に食堂車が連結されることはほぼなくなった。
もちろん食堂車廃止の主因はコストと需要の変化だ。しかし安全基準の強化によるコスト増が、廃止を後押しした側面もある。北陸トンネル事故は、日本の鉄道サービスのあり方にも間接的な影響を与えた。
探偵コラム:「想定外」を想定に組み込む
調査の現場で最も対応が難しいのは、「想定外の事態が起きたとき」だ。事前に考えていないことが起きると、人間は訓練や習慣に頼って行動する。北陸トンネルの運転士はまさにそうした。「火災が起きたら止まれ」という訓練通りに動いた。それが最悪の結果につながった。
では、どうすればよかったのか。「トンネル内での火災」という状況を訓練の想定に加えること——これに尽きる。しかしこれを言うのは簡単で、実践するのは難しい。「どんな状況でも想定に加える」ということは、無限の想定を求めることに等しいからだ。
現実的な答えは「最悪のケースを考える習慣」を組織に根付かせることだと考える。特定の環境下での特殊事態——トンネル内、橋の上、急勾配区間——で起きた場合に通常の手順が通用しなくなる状況を、定期的に洗い出して訓練に加える。完全ではないが、それが「想定外」の範囲を着実に縮小していく。
北陸トンネル事故が産んだ「走り抜け原則」は、まさにその発想から生まれた対策だ。30人の死が、次世代の乗客を守る規則を作った。その重みを、忘れてはならない。
食堂車の火災という「見落とされていたリスク」
北陸トンネル火災の出火原因は食堂車の電気系統過熱だった。夜行列車の食堂車は、走行中も厨房設備を稼働させ続ける。熱源を持つ厨房が長大トンネルを通過する——このシナリオを「リスク」として明示的に評価したうえで安全対策が講じられていたかどうか。
答えは否だった。食堂車の内装が可燃性だったこと、トンネル内での延焼が想定されていなかったこと、換気や避難設備がなかったこと——これらは事故後に初めて「欠陥」と認識された。見えていなかったリスクは対策されない。北陸トンネル事故が残した最大の教訓の一つは、「当たり前と思っていた運行形態に潜むリスクを定期的に棚卸しすること」の重要性だ。
【参考資料】
・運輸省「北陸本線北陸トンネル列車火災事故調査報告書」(1973年)
・運輸安全委員会 鉄道事故報告書データベース
・国土交通省鉄道局「鉄道トンネルにおける防災対策の変遷」
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