1991年(平成3年)5月14日午前10時35分。滋賀県甲賀郡信楽町(現・甲賀市)の山間を走る信楽高原鉄道信楽線、小野谷信号場と紫香楽宮跡駅の間。上りの信楽高原鉄道列車(4両編成)と、下りのJR西日本の臨時快速「世界陶芸祭しがらき号」(3両編成)が正面衝突した。
JR西日本側の先頭車は全長のほぼ3分の1が上方へ座屈し、信楽高原鉄道側の先頭車は2両目と対向車両に挟まれてテレスコーピング現象で原型を留めないほど押し潰された。死者42名、重軽傷者628名。下り列車には乗客・乗員731名が乗っていた。定員のおよそ2.8倍という超満員状態が、被害をさらに大きくした。
報道は「赤信号を無視した出発」「業務課長の独断」という角度でこの事故を伝えた。確かにそれは事実の一部だ。しかしこの事故の本質は、そんな単純な話ではなかった。公判と民事裁判の長い審理の末に明らかになったのは、二つの鉄道会社が互いに相手に無断で信号保安設備を改造し、その全体像を誰も把握しないまま運行を続けていたという構造的欠陥だった。
世界陶芸祭という「無理な計画」
事故の背景には、「世界陶芸祭セラミックワールドしがらき’91」という大規模イベントがあった。1991年4月20日から37日間にわたって信楽町で開催されたこのイベントの想定来場者数は35万人。うち約9万人を鉄道輸送で賄う計画が立てられた。
しかし信楽高原鉄道は、貴生川駅から信楽駅までの全長14.7キロメートルの非電化単線のみを運行するごく小規模な第三セクター鉄道だった。通常の1日平均利用者数は約2000人。イベント期間中の想定ピーク輸送人員は1日あたり9000人で、通常の4倍以上に相当する。
この輸送力不足を補うために、JR西日本が信楽高原鉄道に列車を乗り入れる直通運転が実施されることになった。そのために単線区間に列車の交換(行き違い)ができる「小野谷信号場」が新設され、信号システムが大幅に変更された。
問題の根はここにある。既存の信号システムへの大幅な追加工事が、イベント開催という期限に追われる中で行われた。そして、この工事に伴う信号設備の変更が、双方の会社間で適切に共有されなかった。
事故当日:赤信号が解除されなかった理由
事故当日の朝、JR西日本の亀山CTC(列車集中制御装置)センターは、下り臨時快速「世界陶芸祭しがらき号」が2分遅れていることを確認した。運行管理者は午前9時44分、遠隔操作で「方向優先てこ」を作動させた。
この「方向優先てこ」こそが、事故の引き金を引いた装置の一つだった。これはJR西日本が信楽高原鉄道に無断で設置した装置であり、作動させると下り列車(JR)の進行を優先させ、信楽駅の出発信号を「赤」に固定し続ける。
信楽駅では、上り列車(信楽高原鉄道)が定刻になっても出発信号が「赤」のまま変わらず立ち往生していた。運転士は信号機の故障と判断し、連絡を試みたが状況は改善しなかった。
業務課長の中村裕昭氏は、分岐器(ポイント)を直接確認して機械的な故障ではないと判断し、「信号機単独の故障」と結論づけた。そして「代用閉塞」を実施することを決め、添乗員1名を乗せて定刻から11分遅れの午前10時25分に列車を発車させた。
代用閉塞は、信号機が使えない場合に人員を配置して安全を確保する緊急手段だ。しかしここで致命的な見落としが生じた。「誤出発検知装置」が正常に作動していれば、信楽駅から列車が出発した瞬間に小野谷信号場の下り用信号が「赤」に変わり、JR列車に危険を知らせるはずだった。しかしその装置が作動しなかった。
下りのJR列車は、小野谷信号場の青信号を見て何も知らないまま進行を続けた。そして10時35分、悲劇が起きた。
報告書が示した「二重の無断改造」
運輸省鉄道局が1992年12月に公表した事故原因調査結果は、わずか12ページの報告書だった。その内容は「誤出発検知装置が作動しなかった」ことを事実として認定したが、「何らかの理由により信号回路が一時的に異常接続状態にあったものと推測されるが、断定できない」として、技術的な直接原因の特定を断念した。
しかし民事裁判の審理過程で、より深い問題が明らかになった。
JR西日本は、信楽高原鉄道に無断で「方向優先てこ」を設置し、事故当日にそれを遠隔操作していた。これは法令に基づく手続きを経ていない改造だった。一方、信楽高原鉄道側も、信号システムの変更を必要な手続きなしに実施していた箇所があった。
二つの鉄道会社が、互いに相手方に告知せずに信号保安設備を改変し、その結果として信号システム全体の整合性が崩れた。そのシステムの上で、現場の作業員が「規則に沿った対処」をしようとしたとき、装置は意図した通りに動かなかった。誰もシステム全体を把握していなかった。
「12ページの報告書」と不在だった事故調査機関
この事故で浮き彫りになったもう一つの深刻な問題は、日本に航空・鉄道事故を独立した立場で調査する機関が存在しなかったことだ。
刑事責任の有無を捜査する警察の動きが優先されたため、事故の真の原因を公正に究明する第三者調査は十分に行われなかった。遺族への情報開示もなく、JR西日本は当初「自社の軌道上で起きた事故ではないから責任はない。車両と運転士を信楽側にレンタルしただけだ」という姿勢を取り続けた。
遺族たちは1993年8月、「鉄道安全推進会議(TASK)」を設立した。欧米の事故調査機関を自費で視察し、独立した調査機関の必要性を政府に繰り返し訴えた。刑事裁判では信楽高原鉄道の運行管理責任者ら3名が起訴され、2000年に有罪判決を受けた。JR西日本の関係者は不起訴だった。
民事裁判では、1993年の提訴から6年の審理を経て、1999年の大阪地裁判決がJR西日本にも過失があると認定した。JRは控訴したが、2002年の大阪高裁もJRの過失を認め、ついにJR西日本は遺族に謝罪し、安全対策の確約を行った。
そして2001年、遺族たちの10年にわたる運動が実を結んだ。国土交通省航空・鉄道事故調査委員会が設立された。現在の運輸安全委員会(JTSB)の前身となる機関だ。
この事故が変えた日本の鉄道安全
信楽高原鉄道事故は、日本の鉄道安全行政に複数の変化をもたらした。
第一に、鉄道会社間の直通運転における安全管理の明確化だ。複数の鉄道会社の車両が乗り入れる場合、信号システムの変更は双方の合意と法定手続きが必須とされた。「無断改造」を防ぐ仕組みが制度として整備された。
第二に、独立した事故調査機関の誕生だ。刑事捜査とは分離された第三者機関が事故原因を技術的に究明し、その結果を社会に開示するという仕組みが、この事故を機に整備された。
信楽駅構内には今も「セーフティーしがらき」という展示施設があり、事故の資料が一般公開されている。事故車両の一部や関連部品も保管されている。「事故を風化させたくない」という遺族の思いから生まれた場所で、駅を訪れれば誰でも見学できる。
探偵コラム:「誰も全体を見ていなかった」という恐怖
調査の仕事で何度も見てきた光景がある。複数の関係者がそれぞれの立場で「正しいこと」をしているのに、全体としては誰も意図しない方向へ進んでいく——という状況だ。
信楽高原鉄道事故はまさにそのパターンだった。JR西日本の運行管理者は「遅れた列車を効率よく運行するため」に方向優先てこを操作した。信楽高原鉄道の業務課長は「停車中の乗客を早く動かすため」に代用閉塞を決断した。それぞれが自分の判断の中では「合理的な」行動を取った。
問題は、その二つの行動が組み合わさったとき何が起きるかを、誰も事前に考えていなかったことだ。それを考えるためには、システム全体を把握している人間が必要だった。しかしそういう役割を担う人間が、二社にまたがるこの運行には存在しなかった。
大きな事故の多くは、個人の「悪意」や「怠慢」から生まれるのではない。「全体を見る仕組み」の欠如から生まれる。調査報告書を読むたびに、そのことを痛感する。
【参考資料】
・運輸安全委員会 鉄道事故報告書データベース
・失敗知識データベース「信楽高原鐵道での列車正面衝突」
・運輸省鉄道局「信楽高原鉄道列車衝突事故の原因調査結果について」(1992年12月)
・大阪地方裁判所判決(1999年3月)・大阪高等裁判所判決(2002年)民事訴訟記録
Inquiry
事故・事件の調査依頼はこちら
「この事故の真相を詳しく調べてほしい」「特定の事件について取材してほしい」
仕事の依頼もこちらから受け付けております。お気軽にご相談ください。秘密厳守でお受けします。
※ 返信は通常3営業日以内にメールにてお送りします。


コメント